(監督・脚本:カーロ・ミラベラーディビス/主演:ヘイリー・ベネット/2019年)
幸せとは、人から与えられるものではなく、自分でつかみ取るものだ。
あり余るほどのお金、何不自由ない暮らしが約束されていたとしても、それは幸せとイコールではない。
こんなことを言ったら、きれいごとだと笑われるだろうか?
しかし、この作品を見たら、この言葉が一概にもきれいごとだとは言えなくなるだろう。
大きな会社の跡取り息子と結婚し、ニューヨーク郊外の大きな湖を見渡せる美しい邸宅に暮らす、ハンター。
夫は美しい妻を周囲に自慢し、彼女も夫を誇りに思い、誰もがうらやむような暮らしをしていた。
しかし、それは表向きの姿でしかなかった。
専業主婦であるハンターは、一日中、がらんと広い自宅で、掃除と料理をして過ごすだけ。
夫が帰ってくるまで、誰とも口を聞かず、暇を持て余してスマホのゲームに興じる毎日だ。
夫は事あるごとに「愛している」と言ってくれるけれど、いつも仕事が第一。
せっかく腕を振るった夕食を一緒に食べているときでさえ、電話が鳴れば、そちらが優先される。
存分に贅沢ができ、自分を愛してくれるよくできた夫との暮らし。それにもかかわらず、孤独で、退屈で、満たされない心を抱え、押しつぶされそうだった。
そんなある日、妊娠が発覚する。跡取りができたと、喜びを爆発させる夫と、夫の両親。でも、ハンターだけは、なぜか素直に喜ぶことができなかった。
モヤモヤした気持ちを抱いて、相も変わらず自宅で過ごしていたある日、不思議な衝動に駆られたハンターは、おもむろに小物入れに入っていた小さなガラス球を飲み込む。するとどうだろう、何の代わり映えのしない淡々とした日々に、感じたことのない刺激がもたらせたような、快感にも似た気持ちが湧き上がったのだ。
翌日、排便をすると、飲み込んだガラス球が出てきた。ゴム手袋を付け、それを回収し、丁寧に洗って、化粧台の上に飾った。それから毎日、家にある小さなものを飲み込んで小さな達成感を味わっては、排便の度にそれを回収し、まるでコレクションのように並べて飾りだすのである。
もちろん、そんな彼女のことを、夫は知らない。
異物を飲み込んだり、便から異物を回収したり。文字面だけを見るとなかなかグロくて、ベビーなシーンが続くのだけれど、実際の映像からはそこまでグロい印象は受けない。
それは、とことんこだわり抜かれた、アーティスティックな映像美のおかげ。
セット、衣裳、ヘアメイクなど映り込むすべてのものがスタイリッシュ。また、料理を作るコンロの火のアップ、手元のアップ、目元のアップなど、寄りの画を多用してリアル感を極力排除する工夫がされていた。
引きの画はちょっと殺風景過ぎるくらい、無駄なものを排除した画づくりがなされていて、一つ一つのシーンがまるでアート作品のようなのである。
だから、見ていて引いてしまうような生々しさは一切なく、映像の美しさに見惚れながら、ひたすらハンターの想いに心を寄せて鑑賞することができた。
主演のヘイリー・ベネットは、作品の製作総指揮も担当していたとのことだが、どうしたら自分がキレイに見えるのか、どうしたら絵になるのか、それがわかっているなという感じ。
一歩間違えば、ただのグロ映画に成り下がってしまうところを、完ぺきなアートディレクションで、高尚な作品へと昇華させているところが、お見事だった。
夫に知られることなく、異物を飲み続けていたハンターだったが、ある日健診で病院へ行き、胎児の様子を見るために超音波検査をしたことで、体内にいくつも異物があることが発覚してしまう。精神疾患と診断され、カウンセリングに通わされたり、監視を付けられたりと、息苦しい生活を強いられる。
夫も、夫の両親も、心配しているような素振りを見せるけれども、そばで話を聞いてくれるわけでも、抱きしめてくれるわけでもない。そのことが、何よりも悲しかった。
監視の目を盗み、またも小さなねじ回しのようなものを飲み込むことに成功。しかし、そのまま意識を失い、病院へと搬送されてしまう。退院した彼女を待っていたのは、施設への隔離だった。必死に拒むが、「言うことを聞かなければ離婚だ」と突き放される。
窮地に立たされた彼女がとった行動は、逃亡。使用人の協力を得て、夫や夫の両親から逃げるのである。
逃亡先から電話をすると、「帰ってきてほしい。愛しているよ」と夫。しかし、彼女が拒絶すると、態度が急変する。
「お前なんて一人じゃ何もできないくせに!今以上の暮らしは望めないんだぞ?クソ女!俺の子どもを返せ!!!」
夫や夫の両親がほしかったのは、跡取りだけ。跡取りさえ無事に生んでくれれば、妻など誰でも良かったのだ。夫にとってハンターは、周囲に自慢するだけのトロフィーワイフに過ぎず、本当に彼女を愛していたわけではなかった。
その事実が痛いほどわかった彼女は、ある場所へ足を運ぶ。それは、自分の母親をレイプした犯人の家だった。実は、ハンターは母親がレイプをされてできた子どもだったのだ。そのため、ほかの兄弟や実の父親との関係性が良好ではなく、子ども頃からずっと孤独を感じて生きてきた。
犯人の前で、自分が誰なのかを名乗り、涙ながらに「私はあなたと同じなの?」と尋ねる。それに対して、犯人は「違う。君は自分とは、まったく違うよ」と答える。それはずっと、彼女が聞きたかった言葉だった。そして彼女はようやく、自分は自分であるのだと、自分には何の罪もなく、自らの手で幸せを手に入れる権利があるのだと、納得することができた。
その後、ハンターは、お腹の子どもを中絶する決断をする。
(私は良く知らないのだが、海外では手術ではなく、薬を飲んで中絶をする方法がポピュラーなようだ)
彼女は、とあるショッピングモールのトイレで、たった一人で、子どもをおろした。トイレから出て、何食わぬ顔で髪の毛を整え、去っていく。彼女のこれからの人生に幸あることを、祈りたくなるラストシーンだった。
そして、ふわふわとした余韻に浸りながら、ぼんやりとながめていたエンドロール。しかし段々と、その映像のメッセージ性の高さに心を奪われて、ぼんやりではなく、あらためてしっかりと、スクリーンに見入ってしまった。
5~6つの個室が並んだ、ショッピングモールのトイレの様子。代わる代わる、さまざまな女性たちが、個室に入っては出て、手を洗い、ときには化粧を直して去っていく。ひたすら、その様子が映し出され続けるのだ。
トイレで子どもをおろし、それでも何事もなかったかのように帰っていったハンター。もしかしたら、何気なくトイレに出入りしているこの女性たちのなかにも、彼女と同じような境遇の人がいるかもしれない。普通そうに見えても、どんな事情を抱えているか、心の奥にどんな闇を抱えているかなんて、はたから見てわかるはずもない。
ハンターの物語は、彼女だけの特別なものではなく、誰の身にも起こりうる、今もまさに誰かの身に起こっている、そんなありふれた物語なのだ。
昨年日本で公開された韓国映画『82年生まれ、キム・ジヨン』では、タイトルによくある名字・女性の名前を使うことで、「これはあらゆる女性の物語だ」ということを表現していたが、メッセージとしては、これも同じことだろう。
エンドロールを使って、そういう表現をするセンス。すごい。作品全体を通して、映像表現の可能性を追究した、評価されてしかるべき、素晴らしい映画だった。